「反サロ(反老人サロン医療福祉)活動」は、2020年のコロナ渦で、@kidasangyo氏の発信から、自律的に発生した次世代運動の前身となるX上のミーム活動であり、高齢者医療を中心とした利権や非効率が及ぼす弊害について議論する活動でした。
しかしながら、知名度が浸透するにつれて、昨今の「反サロ」という言葉を巡り、一部の優生思想や安楽死願望などに繋がる誤解が生じている事に強い懸念を持っています。
反サロ活動が、これからも建設的かつ持続的なムーブメントであるためには、誤った用語の認識やミームが広がる事を防ぐ事が必要と考えました。「反サロ」という言葉を、次世代運動が法的な商標として登録したうえで、用語の定義と活動のガイドラインり決める事としました。
以下の「用語の定義」と「活動のガイドライン」を読んだ上で、ご理解、同意いただける方のみ公式に「公認反サロ師」をXのプロフィールで名乗っていただければと思います。そうでない場合は、別の名称(例えば、野良サロ師)を作り、名乗っていただければと思います。
ややこしいですが、次世代運動と反サロ運動は似ていますが、異なる部分も多く、反サロ運動は次世代運動の元となったミーム的な活動で、メンバーも重複はしていますが、半分以上異なります。原初的な活動の火を絶やさず保善したいとも考えています。
公認の反サロ活動に対する、誹謗中傷や風評被害に対しては、法的措置を検討します。
以下の定義と活動ガイドラインを理解した上で、公認反サロ師を名乗りたい方は、次世代運動のDMまでお問合せください。(そうでない方は、野良サロ師として、活動を続けてください)
反サロの用語の意味と定義
🔶反サロは「反老人サロン医療福祉」による弊害を議論、研究、抗議する活動である。
我々の活動には多くの医師や薬剤師、大学研究者も参加しており、満足度を中心としたバラマキ医療福祉問題の弊害と解決を議論しています。医療経済学などの分野で、国内外の査読論文などにも投稿する予定です。
🔶「反老人サロン医療福祉」は以下に分類される
1)自己負担率が低い高齢者の保健医療と介護保険分野の中で、過剰な頻回受診をくり返しても、満足度には貢献しても、健康や寿命に統計的に有意な差を示さないものに反対をする活動
2)自己負担率が低い高齢者の保健医療分野の中で、高青天井な費用に対して、その莫大な費用に見合う医学的効果が乏しく、費用コストを、現役世代の社会保険料として支払う義務を負うもの(例:欧州で承認されなかったレマネカブなど)に反対をする活動
3)自己負担率が低い高齢者の保健医療分野の中で、当事者である高齢者の同意を得ることがなく、行われる、苦痛を伴う延命行為(廃用認知症高齢者への胃ろう延命など)。諸外国で一般的な看取りガイドラインの推進と浸透を啓発する
4)一部の自費医療分野において、医師免許の業務独占行為と、医学知識の情報非対称性を悪用した、エビデンスに乏しい、高額の癌の免疫療法などに反対をする活動
※4)に関しては、我々は、公的資金を投じていない限り、効果が無い危険な医療であっても、民間療法も含めて個人の自己責任というリバタリアンの考え方ですが、効果の乏しい高額な癌免疫療法などの場合は「医師免許」という国家による規制参入障壁を利用した構造がありますので、この歪な非対称性に対して強く批判します。また、大人は自己決定と自己責任が成立しますが、子供は成立しませんので、子供を巻き込む危険医療には強く反対します。
🔶小さな政府を目指す、標準医療主義、インフラ福祉主義
我々は人間の生命健康に必要な標準医療と、インフラ福祉のセーフティネットが守られた小さな政府を目指す存在です。標準医療を否定する反医療主義や大きな政府によるバラマキ医療福祉国家を目指す存在ではありません。
我々は、20世紀に完成された、基本外科、周産期医療、抗生物質、ワクチン、産科、水道環境の改善、栄養状態の改善など、「標準医療」と「基本インフラ」にこそ、人々の健康と生命を守る土台があると考えています。その大切な土台部分を維持困難にしてしまう、お金と人的労働力資源を浪費する高齢者バラマキ医療福祉は、本末転倒な事態を引き起こしかねないと考えています。
反サロ(反老人サロン医療福祉活動)の目的
反サロ活動は、財政論だけではなく、枯渇する生産年齢人口の問題「人口動態予想」を根拠に解決策を模索する活動です。我々の活動に対しては、反論も含めて、財政論ではなく、人的労働資源からの議論をお待ちしています。
🔶20年後の人口動態に基づいた高齢者医療福祉問題の解決
2024年現段階の年間出生数(1学年70万人台)の彼らが、新たな社会人となる20年後、要介護世代は、1学年180万人となります。軽度も含む認知症患者は、日本国内で700万人近くになるという予想もあります。内閣官房 認知症施策推進関係者会議 「認知症及び軽度認知障害の有病率調査並びに将来推計に関する研究」
今の個別訪問の在宅介護や、バラマキ頻回受診医療に、ただでさえ枯渇しつつある労働資源が吸収されていると、とてもではなく、高齢者の介護や医療資源を持続することはできません。
我々は、介護労働人口の供給と、認知症高齢者の増加(需要)ギャップから、施設入所が出来ずに、糞便まみれで放置される介護難民が、日本全国で日常的に発生する未来になると予測しています。
この確実に起きるであろう、地獄のような近未来を回避するためには、高齢者バラマキ医療や小規模介護の効率化を進めて、本当に生命と健康に不可欠なインフラ部分へと集約化する必要があります。
特に、1人の高齢者の個別自宅に家庭教師のように様々なスタッフが訪問する現在の在宅介護は維持困難です。必ず介護難民が出て自宅放置死が起きます。
大きな街のようなひらかれた大規模介護施設に集まり、規模効率化することで、家族も地域の人も遊んで、ふれあえる施設環境が必要です。
結果的に高齢者の生活の質(QOL)も上がり、家族や働く人の満足度も向上させることができます。
また、時代に合わない街中で同じ湿布や薬を頻回受診で受け取るだけの医療ビジネスを縮小させて、外科や産科など、緊急性が高い医療インフラ領域に人的資源を集約することで、国民の健康と生命を守ります。
湿布や風邪薬がいくらでも安く貰える社会ではなく、草刈り機で指が切断されたり、事故で内臓が飛び出ても、助かる社会を目指します。
🔶20年後の人口動態に基づいた現役負担問題の解決
日本の社会保険制度は、年金も医療も実質的には現役が高齢者を支える賦課方式となっています。1990年台までは、3人の現役世代で1人の高齢者を支えていましたが、2024年の現在、2.0人の現役世代で、1人の高齢者を支える構図となっています。それが2040年には、1.5人で1人の高齢者を支える必要があります。(この予想は内閣府による甘い見積りです)加速度的に悪化します。
高齢者の生命や健康に不可欠な医療や福祉は、上記の施設インフラのように守る必要はありますが、満足度を満たす頻回受診や、非効率な在宅介護、また巨額の費用にみあわない先端新薬などは、見直すべきだと考えます。
また、人間は必ず老いるので自然寿命が存在します。これは生物としての宿命であり、現役層の難病などとは異なります。我々は、自然寿命に青天井で医療費を投じる事に反対します。
高齢者の満足度や不安解消の為ではなく、生命に関わるエッセンシャルな医療福祉への見直しを求めます。(これは上記の枯渇する労働資源の保善にも繋がります)
また、需要に応じて、歳出を拡大するのではなく、現役世代が許容できる範囲での高齢者医療福祉の歳出を求めます(年間予算、医療40兆円、年金80兆円などの中で、やりくりするなど)
現役世代の生活が困窮化してしまうと、本末転倒だからです。
🔶国家機能を維持するインフラと産業の労働資源の保全と、真の弱者へのセーフティネットの確保
我が国の人的労働資源の需要と供給関係は、急速に悪化しており、リクルートワークス研究所の予想では、20年後には、生活に必要な水道整備、物流など、インフラの維持が困難な自治体も全国で発生することが予想されています。
そのような中で、非効率な高齢者バラマキ医療福祉に若い労働力が吸収される本末転倒な事態を、防ぐ必要があります。微々たる効果の満足度サービスが増えても、生命に関わるインフラが維持困難となると、かならず人間は死ぬのです。
また、わが国では、政治的に票田にならない真の弱者(虐待されている児童、行動障害を持つ自閉症のご家庭)などよりも、票田規模が大きなマジョリティの声が大きく、そこに福祉予算と人員が投下されている現実があります。
声の大きい票田マジョリティへのバラマキに予算と人が流れる事で、彼ら真の弱者の為の児童養護施設や生活施設の人員資源を浪費するわけにはいきません。
非効率な高齢者バラマキ医療福祉に予算と人が流れるのを阻止して、枯渇する労働資源を、生きる為のインフラや、本当にセーフティネットを必要としている弱者へ残す事が、反サロ活動の目的の1つです。
反サロ(反老人サロン医療福祉活動)と無関係なもの
1)子育て支援の拡充について
我々は次世代にツケを残さない事、現役世代の負担を減らす事を重視しています。しかし、教育含めて「全て無償化」のかけ声で、様々なサービスがバラマキにより半公共化されて、さらなる増税や社保負担が増える事に反対しています。国民が「自腹を切る」コスト感覚がなくなり、大きな政府の方向へ進む事で、事実中の社会主義化が進行することを懸念しています。
2)安楽死の推進
我々は苦痛を伴う病気などの方々に対しての安楽死には反対していません。しかし、昨今の「生きたくないから、安楽死を求める風潮」には、迎合することはできません。我々の基本姿勢として「死」は「個人」の自己が決めるものであり、その選択と実行においても、国家に依存するべきではないと考えています。リバタリアン的な考え方になりますが、究極的に個人の「死」は国家が管理コントロールできないからこそ、意味があるのではないでしょうか。
3)高齢者の処分など優生思想
社会保障費負担の重さが増し、高齢者の危険運転による死亡事故などが増えるにつれて「高齢者は間引け」という優生思想が流行り始めます。我々は、満足度サービスや、人間の加齢自然寿命に対して、青天井で公的資金と労働資源を投入することには反対していますが、高齢者が人為的に削減する事は求めていません。人間は生物なので、加齢で自然に亡くなる、その事実に基づいて、活動しています。
4)明らかな反医療
我々は個人の自己決定権を尊重する立場ですので、公的資金が投じられていない自費であるならば、危険な民間療法であっても反対はしません。ただし、我々が重視しているのは、人間の寿命と健康に影響が大きい「標準医療」の土台部分ですので、反医療を推奨しているわけではありません。むしろ、真逆の存在だと考えていただければと思います。